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日常のトピ

たまにどヘタ漫画

『私訳 歎異抄』 五木寛之

 

鎌倉幕府から弾圧を受けながら、真の仏の道を求めた浄土真宗の開祖・親鸞。その教えを弟子の唯円が「正しく伝えたい」と願って書き残し、時代を超えて読み継がれたのが『歎異抄』である。本書は、親鸞の生涯に作家として正面から向き合い、三部作の大長編に挑んできた著者が、自らの心で深く受け止めた『歎異抄』を、滋味あふれる平易な文体で現代語訳した名著。(「BOOK」データベースより)

 

本書は、親鸞の弟子である唯円が記した『歎異抄』を、作家の五木寛之さんが「私訳」したものです。「『私訳 歎異抄』とは、私がこう感じ、このように理解し、こう考えた、という主観的な現代語訳である。そんな読み方自体が、この本の著者、唯円が歎く親鸞思想からの逸脱かもしれない。そのことを十分、承知の上で、あえて「私」にこだわったのだ」とまえがきにも書いてあるように、この本は「唯円歎異抄」ではなく、「五木寛之さんの歎異抄」なのです。

 

歎異抄というと、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という文章で有名な「悪人正機」を思い描く人は多いと思います。この悪人正機が曲解されたことによって、「親鸞=悪人に甘い人」というイメージが流布しました。しかしながら、本来の悪人正機は、「悪人を甘やかす意図を含んだもの」ではありません。以下引用します。

 

「わたしたち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちのいのちをうばい、それを食することなしには生きえないという、根源的な悪を抱えた存在である。山に獣を追い、海河に魚をとることを業が深いという者がいるが、草木国土のいのちをうばう農も業であり、商いもまた業である。敵を倒すことを職とする者は言うまでもない。すなわちこの世の生きる者はことごとく深い業をせおっている。

わたしたちは、すべて悪人なのだ。そう思えば、我が身の悪を自覚し嘆き、他力の光に心から帰依する人びとこそ、仏に真っ先に救われなければならない対象であることがわかってくるだろう。おのれの悪に気づかぬ傲慢な善人でさえも往生できるのだから、まして悪人は、とあえて言うのは、そのような意味である」

 

上記のような意見に対して、「自分は悪人ではない。仮に悪人だったとしても、それを補って余りあるほどの善行を積んでいるから問題はない」という反論をする人が少なからずいます。しかしながら、そのような反論はあまりにも的外れであり、文字通り、お話になりません。

 

親鸞が言っているのは、「生きるということ自体がすでに悪をはらんでいる」ということです。そして、その悪というのは、大小(多少)で分類できるようなものではなく、いくら善行を積んだからといって解消できるようなものでもありません。人間が内包している悪というのは、「生きている間中、常につきまとう類いのもの」です。その潜在的な悪に対して自覚的になることが、「人間としてまっとうに生きる」ということなのでしょう。

 

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